図解
図解:問いを6ステップで読みとく流れ(自動生成)
伊賀・甲賀に実在した地侍が「忍びの者」だったから。
「忍者」と聞くと、黒い服を着て手裏剣を投げる、ちょっとふしぎな戦士を思いうかべますよね。テレビやマンガの忍者はカッコいいけれど、あんな人がむかしにほんとうにいたのでしょうか。答えは「いた」です。ただし、みなさんが思っているすがたとは、少しちがったかもしれません。
むかしの日本には、いまの三重県や滋賀県のあたりに、「伊賀」「甲賀」とよばれる地方がありました。そこでは、「伊賀衆」や「甲賀衆」とよばれる人たちがくらしていました。ふだんは村で田畑をたがやすふつうの侍ですが、ときどき戦いのなかで、こっそり相手の様子をさぐったり、お城にしのびこんだりする仕事をしたのです。
とくに有名なのが、1582年、本能寺の変のあとに、徳川家康を守って山道をぬけるのを助けたお話です。伊賀の人たちの力があってこそ、家康は無事に自分のお国へ帰ることができました。
江戸時代になると、伊賀の人たちは幕府にやとわれ、江戸のお城の警備や、地方への情報あつめの仕事をしました。手裏剣で空をとぶような超人ではなく、地道な「情報の達人」だったのです。
中世の忍者は、超人的な戦士ではなく伊賀・甲賀の「地侍」だった。文化庁の日本遺産ポータルによれば、彼らは「伊賀衆」「甲賀衆」と呼ばれる地侍の連合をつくり、「伊賀惣国一揆」「甲賀郡中惣」という自治組織で「一味同心」に団結して物事を決めていた。伊賀・甲賀には800もの城館があったといい、村落単位で武装し、時に敵の情報を探る「忍び働き」をしていたのだ。天正10年(1582)、本能寺の変直後の「神君伊賀越え」では、伊賀・甲賀の者たちが徳川家康を無事に三河へ護衛した。この功績が江戸幕府に仕える伊賀者のはじまりとなる。忍術は山伏の精神修行、杣人の樹上移動術、薬草や火薬の知識が統合されたもので、延宝4年(1676)に『萬川集海』としてまとめられた。忍者は「実在した」が、「超能力を使う黒装束の暗殺者」というイメージは、江戸後期以降に読本や芝居で作られた虚像なのだ。
仕組みの科学
忍者の「忍術」を、超能力ではなく実際の技術として見ていこう。文化庁の解説によれば、忍術は、山伏の精神統一法や薬草の知識、杣人(きこり)が木から木へと移動する跳躍術、そして化学の知識といった、当時のさまざまな「くらしの技」を統合したものだった。山伏からは、山中で長く行動するための呼吸法や薬草の使い方が受けつがれた。杣人からは、木の枝を利用して高所を移動する跳躍と、地形を読みとる感覚が受けつがれた。さらに火薬や毒物の知識も加わり、遠くから合図を送ったり、火をつけて敵をかく乱したりする道具が生まれた。こうした知恵は延宝4年(1676)に『萬川集海』という書物にまとめられ、忍術の集大成となる。手裏剣で空を飛ぶ超人的な描写は、後の芝居や読本が作り出したものだ。実際の忍者は、地道な観察と体力、そして地元の地理と人脈を熟知する「情報の達人」だったのである。変装術や記憶術・地理術など、体系的な知識体系の一部は忍術書として口伝され、今も研究の対象となっている。
歴史と発見
忍者の存在を証明する史料は多い。国立国会図書館の解説によれば、イエズス会が編集した『日葡辞書』には、忍者を「戦争の際に状況を探るため、夜間に城内へよじ登る間諜」と定義した記載がある。ヨーロッパ人の視点でも当時から認識されていたのだ。文化庁によれば、江戸時代の地誌『近江輿地志略』には「忍者は伊賀・甲賀の者が代表格」と明記されている。中世の伊賀・甲賀には約800の城館があり、地侍たちは「伊賀惣国一揆」「甲賀郡中惣」という自治組織を持ち、外敵に対して村単位で自衛していた。1582年、本能寺の変で織田信長が討たれた直後、堺にいた徳川家康は、伊賀を通って三河へ戻る「神君伊賀越え」を敢行する。この時、伊賀・甲賀の地侍が家康を護衛し、無事に帰還させた。この功績が縁で、家康は伊賀者を家臣に取り込み、江戸幕府成立後は「伊賀組」として江戸城の警備や情報収集を担う正規の役職となった。元和元年(1615)の大坂夏の陣まで、伊賀者は幕府の戦いに参加している。
もう一歩先
三重大学は、伊賀研究拠点・伊賀連携フィールド・国際忍者研究センターという3つの機関を持ち、大学院で「忍者学」を学べる世界でも数少ない環境を提供している。研究テーマは、古文書の解読、忍術書の科学的分析、忍者が使ったとされる道具の復元、そして江戸時代の伊賀者の実像を掘り起こす社会史など、多岐にわたる。近年は「忍者の走り方」や「食事」を科学的に検証する試みも行われており、伝説と史実を切り分ける努力が続いている。忍者は「いたか、いなかったか」ではなく、「どんな人たちで、何をしていたか」を問い直す段階に入っているのだ。国立国会図書館の解説によれば、明治以降の講談や小説、そして20世紀の映画やマンガが、「黒装束」「手裏剣」「分身の術」といった超人的なイメージを作り上げた。それらの虚像を楽しみつつ、史料の中の実像に触れることで、忍者は「かつて本当にいた、情報のプロフェッショナル」として新しい顔を見せてくれる。三重や滋賀の博物館・史跡を訪ねれば、その一端に触れられる。
🌱 ためしてみよう!3択クイズ
本文をよんでこたえてみよう。タップでせいかいがでるよ。
Q1. むかし、忍者がいたのはどこ?
Q2. 江戸幕府にやとわれた伊賀者のおもな仕事は?
江戸幕府に仕えた伊賀者は「伊賀組」として、江戸城の警備や地方への情報あつめを担当しました。テレビの忍者のように空をとぶ超人ではなく、地道な情報の達人だったのです。
Q3. 「神君伊賀越え」とはどんな出来事?
1582年、本能寺の変のあと、徳川家康が伊賀を通って三河へ帰った出来事です。伊賀・甲賀の地侍が家康を守り、無事に帰ることができました(文化庁)。
👤 大人のちょっとした雑学
近江輿地志略が明記した忍者
文化庁の解説によれば、江戸時代の地誌『近江輿地志略』は「忍者は伊賀・甲賀の者が代表格」と記している。中世の伊賀・甲賀は約800もの城館を持つ地侍連合で、超人ではなく組織化された情報のプロだった。
日葡辞書に載っていた忍者
国立国会図書館の解説によれば、江戸初期にイエズス会が編集した『日葡辞書』は忍者を「戦争の際に状況を探るため、夜間に城内へよじ登る間諜」と定義している。ヨーロッパ人も認識していた実在の職能だ。
忍者学を学べる大学がある
三重大学は国際忍者研究センターを持ち、大学院で「忍者学」を学べる世界でも数少ない環境を提供する。古文書の解読・忍術の科学的検証・道具復元など研究が進んでいる(三重大学R-navi)。
🔬 とことん深掘り:読書ガイド
読み順ガイド(やさしい→専門)
- 『忍者の歴史』(山田雄司)
三重大学の第一人者による通史。中世〜近世の実像を体系的に整理する入門書。 - 『忍者を科学する』(中島篤巳)
忍術書の記述を実験や史料から科学的に検証。虚像と実像を切り分ける視点が身につく。 - 『忍者学講義』(山田雄司ほか)
国際忍者研究センターの成果を集めた学術的入門書。研究の最前線に触れられる。
さらに進む方向
もっと詳しく:歴史と時系列
- 中世〜戦国期伊賀・甲賀に約800の城館・地侍連合「伊賀衆」「甲賀衆」が形成
- 1582年(天正10)本能寺の変直後、伊賀・甲賀衆が徳川家康を護衛(神君伊賀越え)
- 1615年(元和元)大坂夏の陣まで伊賀者が江戸幕府の戦いに参加
- 1676年(延宝4)忍術の集大成『萬川集海』が編纂される
- 明治以降講談・小説・映画で「黒装束・手裏剣」の忍者像が広まる
- 現代三重大学に国際忍者研究センターが設立され忍者学の研究が進む
ことばのメモ
- 地侍
- 村に住み田畑を耕しながら武装した侍
- 伊賀・甲賀
- 忍者発祥地とされる二つの地方
- 神君伊賀越え
- 家康が伊賀を通り帰った出来事
- 日葡辞書
- 江戸初期にイエズス会が作った辞書
- 萬川集海
- 延宝4年編纂の忍術書の集大成
よくある質問
忍者はほんとうにいたのですか?
手裏剣で敵を倒したりしたのですか?
神君伊賀越えとは何ですか?
今も忍者を研究している大学はありますか?
学びのタネ
この問いに関連する本・実験・サービスのご紹介です。
家でできること
- 三重県伊賀市や滋賀県甲賀市の忍者関連博物館・史跡を訪ねて、実際の道具や史料を見てみよう。
- 図書館で『萬川集海』の現代語訳や、忍者を題材とした学術書を借りて、史料に触れてみよう。
おとな向けに:新書・実用書
とことん深く:専門書・古典
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出典・参考文献
- 文化庁 日本遺産ポータル忍びの里 伊賀・甲賀 参照 2026-07-16
- 国立国会図書館弐之巻 ホンモノ忍者|本の万華鏡 第33回 NINJA 虚像と実像 参照 2026-07-16
- 三重大学 R-navi深化する三重大学の忍者研究 参照 2026-07-16
出典・正確性ポリシー:詳しく読む
むかしの伊賀(いまの三重県)・甲賀(いまの滋賀県)にいた「伊賀衆」「甲賀衆」とよばれる地侍が忍者のもとになりました。文化庁の日本遺産にも指定されています。