忍者はほんとうにいたの?

公開:2026-07-17 更新:2026-07-17 読了 約6分

図解

1 中世〜戦国期 伊賀・甲賀に約800の城館・地侍連合「伊賀衆」「甲賀衆」 が形成 2 1582年(天正10) 本能寺の変直後、伊賀・甲賀衆が徳川家康を護衛(神君伊賀越 え) 3 1615年(元和元) 大坂夏の陣まで伊賀者が江戸幕府の戦いに参加 4 1676年(延宝4) 忍術の集大成『萬川集海』が編纂される 5 明治以降 講談・小説・映画で「黒装束・手裏剣」の忍者像が広まる 6 現代 三重大学に国際忍者研究センターが設立され忍者学の研究が進

図解:問いを6ステップで読みとく流れ(自動生成)

伊賀・甲賀に実在した地侍が「忍びの者」だったから。

「忍者」と聞くと、黒い服を着て手裏剣を投げる、ちょっとふしぎな戦士を思いうかべますよね。テレビやマンガの忍者はカッコいいけれど、あんな人がむかしにほんとうにいたのでしょうか。答えは「いた」です。ただし、みなさんが思っているすがたとは、少しちがったかもしれません。

むかしの日本には、いまの三重県や滋賀県のあたりに、「伊賀」「甲賀」とよばれる地方がありました。そこでは、「伊賀しゅう」や「甲賀衆」とよばれる人たちがくらしていました。ふだんは村で田畑をたがやすふつうのさむらいですが、ときどき戦いのなかで、こっそり相手の様子をさぐったり、お城にしのびこんだりする仕事をしたのです。

とくに有名なのが、1582年、本能寺の変のあとに、徳川家康いえやすを守って山道をぬけるのを助けたお話です。伊賀の人たちの力があってこそ、家康は無事に自分のお国へ帰ることができました。

江戸時代になると、伊賀の人たちは幕府にやとわれ、江戸のお城の警備や、地方への情報あつめの仕事をしました。手裏剣で空をとぶような超人ではなく、地道な「情報の達人」だったのです。

中世の忍者は、超人的な戦士ではなく伊賀・甲賀の「地侍」だった。文化庁の日本遺産ポータルによれば、彼らは「伊賀衆」「甲賀衆」と呼ばれる地侍の連合をつくり、「伊賀惣国一揆」「甲賀郡中惣」という自治組織で「一味同心」に団結して物事を決めていた。伊賀・甲賀には800もの城館があったといい、村落単位で武装し、時に敵の情報を探る「忍び働き」をしていたのだ。天正10年(1582)、本能寺の変直後の「神君伊賀越え」では、伊賀・甲賀の者たちが徳川家康を無事に三河へ護衛した。この功績が江戸幕府に仕える伊賀者のはじまりとなる。忍術は山伏の精神修行、杣人の樹上移動術、薬草や火薬の知識が統合されたもので、延宝4年(1676)に『萬川集海』としてまとめられた。忍者は「実在した」が、「超能力を使う黒装束の暗殺者」というイメージは、江戸後期以降に読本や芝居で作られた虚像なのだ。

仕組みの科学

忍者の「忍術」を、超能力ではなく実際の技術として見ていこう。文化庁の解説によれば、忍術は、山伏の精神統一法や薬草の知識、杣人(きこり)が木から木へと移動する跳躍術、そして化学の知識といった、当時のさまざまな「くらしの技」を統合したものだった。山伏からは、山中で長く行動するための呼吸法や薬草の使い方が受けつがれた。杣人からは、木の枝を利用して高所を移動する跳躍と、地形を読みとる感覚が受けつがれた。さらに火薬や毒物の知識も加わり、遠くから合図を送ったり、火をつけて敵をかく乱したりする道具が生まれた。こうした知恵は延宝4年(1676)に『萬川集海』という書物にまとめられ、忍術の集大成となる。手裏剣で空を飛ぶ超人的な描写は、後の芝居や読本が作り出したものだ。実際の忍者は、地道な観察と体力、そして地元の地理と人脈を熟知する「情報の達人」だったのである。変装術や記憶術・地理術など、体系的な知識体系の一部は忍術書として口伝され、今も研究の対象となっている。

歴史と発見

忍者の存在を証明する史料は多い。国立国会図書館の解説によれば、イエズス会が編集した『日葡辞書』には、忍者を「戦争の際に状況を探るため、夜間に城内へよじ登る間諜」と定義した記載がある。ヨーロッパ人の視点でも当時から認識されていたのだ。文化庁によれば、江戸時代の地誌『近江輿地志略』には「忍者は伊賀・甲賀の者が代表格」と明記されている。中世の伊賀・甲賀には約800の城館があり、地侍たちは「伊賀惣国一揆」「甲賀郡中惣」という自治組織を持ち、外敵に対して村単位で自衛していた。1582年、本能寺の変で織田信長が討たれた直後、堺にいた徳川家康は、伊賀を通って三河へ戻る「神君伊賀越え」を敢行する。この時、伊賀・甲賀の地侍が家康を護衛し、無事に帰還させた。この功績が縁で、家康は伊賀者を家臣に取り込み、江戸幕府成立後は「伊賀組」として江戸城の警備や情報収集を担う正規の役職となった。元和元年(1615)の大坂夏の陣まで、伊賀者は幕府の戦いに参加している。

もう一歩先

三重大学は、伊賀研究拠点・伊賀連携フィールド・国際忍者研究センターという3つの機関を持ち、大学院で「忍者学」を学べる世界でも数少ない環境を提供している。研究テーマは、古文書の解読、忍術書の科学的分析、忍者が使ったとされる道具の復元、そして江戸時代の伊賀者の実像を掘り起こす社会史など、多岐にわたる。近年は「忍者の走り方」や「食事」を科学的に検証する試みも行われており、伝説と史実を切り分ける努力が続いている。忍者は「いたか、いなかったか」ではなく、「どんな人たちで、何をしていたか」を問い直す段階に入っているのだ。国立国会図書館の解説によれば、明治以降の講談や小説、そして20世紀の映画やマンガが、「黒装束」「手裏剣」「分身の術」といった超人的なイメージを作り上げた。それらの虚像を楽しみつつ、史料の中の実像に触れることで、忍者は「かつて本当にいた、情報のプロフェッショナル」として新しい顔を見せてくれる。三重や滋賀の博物館・史跡を訪ねれば、その一端に触れられる。

🌱 ためしてみよう!3択クイズ

本文をよんでこたえてみよう。タップでせいかいがでるよ。

Q1. むかし、忍者がいたのはどこ?
こたえ:いまの三重県・滋賀県のあたり
むかしの伊賀(いまの三重県)・甲賀(いまの滋賀県)にいた「伊賀衆」「甲賀衆」とよばれる地侍が忍者のもとになりました。文化庁の日本遺産にも指定されています。
Q2. 江戸幕府にやとわれた伊賀者のおもな仕事は?
こたえ:江戸城の警備や情報あつめ
江戸幕府に仕えた伊賀者は「伊賀組」として、江戸城の警備や地方への情報あつめを担当しました。テレビの忍者のように空をとぶ超人ではなく、地道な情報の達人だったのです。
Q3. 「神君伊賀越え」とはどんな出来事?
こたえ:家康が伊賀を通ってお国へ帰った話
1582年、本能寺の変のあと、徳川家康が伊賀を通って三河へ帰った出来事です。伊賀・甲賀の地侍が家康を守り、無事に帰ることができました(文化庁)。

👤 大人のちょっとした雑学

近江輿地志略が明記した忍者

文化庁の解説によれば、江戸時代の地誌『近江輿地志略』は「忍者は伊賀・甲賀の者が代表格」と記している。中世の伊賀・甲賀は約800もの城館を持つ地侍連合で、超人ではなく組織化された情報のプロだった。

日葡辞書に載っていた忍者

国立国会図書館の解説によれば、江戸初期にイエズス会が編集した『日葡辞書』は忍者を「戦争の際に状況を探るため、夜間に城内へよじ登る間諜」と定義している。ヨーロッパ人も認識していた実在の職能だ。

忍者学を学べる大学がある

三重大学は国際忍者研究センターを持ち、大学院で「忍者学」を学べる世界でも数少ない環境を提供する。古文書の解読・忍術の科学的検証・道具復元など研究が進んでいる(三重大学R-navi)。

🔬 とことん深掘り:読書ガイド

読み順ガイド(やさしい→専門)

  1. 『忍者の歴史』(山田雄司)
    三重大学の第一人者による通史。中世〜近世の実像を体系的に整理する入門書。
  2. 『忍者を科学する』(中島篤巳)
    忍術書の記述を実験や史料から科学的に検証。虚像と実像を切り分ける視点が身につく。
  3. 『忍者学講義』(山田雄司ほか)
    国際忍者研究センターの成果を集めた学術的入門書。研究の最前線に触れられる。

さらに進む方向

  • 中世社会史(地侍・惣村・国一揆)へ広げる
  • 武術・古武道・体術の実技研究へ接続する
  • 情報学・スパイ史・比較諜報論へ進む

もっと詳しく:歴史と時系列

  1. 中世〜戦国期
    伊賀・甲賀に約800の城館・地侍連合「伊賀衆」「甲賀衆」が形成
  2. 1582年(天正10)
    本能寺の変直後、伊賀・甲賀衆が徳川家康を護衛(神君伊賀越え)
  3. 1615年(元和元)
    大坂夏の陣まで伊賀者が江戸幕府の戦いに参加
  4. 1676年(延宝4)
    忍術の集大成『萬川集海』が編纂される
  5. 明治以降
    講談・小説・映画で「黒装束・手裏剣」の忍者像が広まる
  6. 現代
    三重大学に国際忍者研究センターが設立され忍者学の研究が進む

ことばのメモ

地侍
村に住み田畑を耕しながら武装した侍
伊賀・甲賀
忍者発祥地とされる二つの地方
神君伊賀越え
家康が伊賀を通り帰った出来事
日葡辞書
江戸初期にイエズス会が作った辞書
萬川集海
延宝4年編纂の忍術書の集大成

よくある質問

忍者はほんとうにいたのですか?
いました。中世の伊賀・甲賀にいた地侍が「忍びの者」として、情報収集や城への潜入を行っていました。文化庁の日本遺産にも指定されています。
手裏剣で敵を倒したりしたのですか?
実際には情報収集や偵察が主な仕事でした。手裏剣で人を倒すというイメージは、江戸後期以降の芝居や読本、20世紀の映画などが作った虚像です。
神君伊賀越えとは何ですか?
1582年、本能寺の変の直後、堺にいた徳川家康が伊賀を経由して三河へ戻った出来事です。伊賀・甲賀の地侍が家康を無事に護衛しました。
今も忍者を研究している大学はありますか?
三重大学に国際忍者研究センターがあり、大学院で「忍者学」を学べます。古文書の解読や忍術書の科学的検証などを行っています。

学びのタネ

この問いに関連する本・実験・サービスのご紹介です。

家でできること

  • 三重県伊賀市や滋賀県甲賀市の忍者関連博物館・史跡を訪ねて、実際の道具や史料を見てみよう。
  • 図書館で『萬川集海』の現代語訳や、忍者を題材とした学術書を借りて、史料に触れてみよう。

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出典・参考文献

  1. 文化庁 日本遺産ポータル忍びの里 伊賀・甲賀 参照 2026-07-16
  2. 国立国会図書館弐之巻 ホンモノ忍者|本の万華鏡 第33回 NINJA 虚像と実像 参照 2026-07-16
  3. 三重大学 R-navi深化する三重大学の忍者研究 参照 2026-07-16

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