江戸はなぜ東京になったの?

公開:2026-07-17 更新:2026-07-17 読了 約6分

図解

1 1590年 徳川家康が江戸に入る 2 1603年 江戸幕府が開かれる 3 18世紀 江戸の人口が100万人を超える 4 1868年7月17日 詔書『江戸を東京と称す』・東京府設置 5 1868年9月8日 明治改元・一世一元の制が定まる 6 1868年10月13日 江戸城が皇居・東京城に改称

図解:問いを6ステップで読みとく流れ(自動生成)

明治の新政府が東国の中心地と定めて改称したから。

今わたしたちが住む『東京』は、むかし『江戸』と呼ばれていたのを知っていますか? 名前がかわったのは、今から150年以上前のことです。

江戸時代のおわりごろ、日本は大きく国のしくみを変える時期をむかえていました。京都きょうとに天皇さまがおり、政治の中心は江戸にありましたが、長く続いた武士ぶしのしくみが終わり、新しい『明治』という時代がはじまろうとしていたのです。

国立公文書館の資料しりょうによると、慶応けいおう4年(1868年)7月17日、明治天皇さまが『江戸を東京とよぶ』という詔書しょうしょを出されました。これが東京というおおきな名前のはじまりです。

東京都公文書館の解説かいせつによると、『東京』ということばは、もともと『ひがしの方にある都』という意味です。西にしの都に対して、東の都をあらわすことばだったのですね。同じ日に、江戸府にかわって『東京府』も生まれ、町のしくみが新しくなりました。

そののち、明治天皇は東京へお引っこしをされ、江戸城は『皇居』とよばれるようになります。江戸という名前は、こうしてしだいに『東京』と生まれかわったのですね。

江戸が東京と改称されたのは、慶応4年(1868年)7月17日。国立公文書館の解説によれば、この日に明治天皇から『江戸を東京と称す』との詔書が発せられ、同日付で江戸府に代わって東京府が設置された。江戸時代の象徴だった『江戸』の名は、政治的な意味も含めて『東京』に塗りかえられた。

明治改元はこの2か月ほど後の同年9月8日で、慶応4年がそのまま明治元年に充てられた。一世一元の制が制度化されたのもこの時だ。同年10月13日には、江戸城が天皇の『皇居』と定められ、同時に『東京城』とも称されるようになる。

『東京』という語自体は新政府の造語ではない。東京都公文書館の解説によれば、もともと『東の方にある都』を意味し、中国では西京長安に対する呼称として用いられた語だという。改称は単なる名前の変更ではなく、近代日本の都市と政治の再編を象徴する出来事だった。

仕組みの科学

江戸という地名は、もともと現在の千代田区一帯を指す地域名であり、平安時代末期の武士・江戸氏に由来する。徳川家康が1590年に入府したことで、江戸は急速に拡大し、徳川幕府が開かれた1603年以降は、長きにわたり日本の事実上の首都として機能した。武家屋敷・町人地・寺社地が同心円状に広がり、18世紀には人口100万人を超える世界有数の大都市になったとされる。

明治維新の過程で、新政府は近世以来の幕藩体制を解体し、天皇を中心とする中央集権国家へと組み替えていく。その象徴が、『東京』への改称と、東京府の設置である。国立公文書館によれば、慶応4年(1868年)7月17日付の詔書では、江戸を『東国第一の大鎮』と位置づけたうえで東京と定めた、とされる。改称は単なる地名変更ではなく、首都機能の移動と新しい統治の枠組みを公式に宣言する意味を持っていた。京都との均衡を保ちつつ、東国の大都市を新時代の中枢へ位置づけ直す象徴的な手続きでもあったのだ。

歴史と発見

東京改称までの流れは、複数の段階に分けて理解できる。まず明治新政府の内部では、大久保利通による『大坂遷都論』など、首都をどこに置くかをめぐる議論が早くからあった。最終的に選ばれた東京は、徳川幕府が築いた大都市基盤・港湾・関東平野という地理的な利点が決め手になったとされる。

国立公文書館の『変貌』展では、慶応4年7月17日に詔書で『江戸を東京と称す』と定め、同日に東京府を設置し、同年9月8日に明治改元と一世一元の制が定まり、明治元年10月13日に江戸城を『皇居』『東京城』と改称した、という一連の出来事が時系列で示されている。江戸城は、その後の宮内省管轄下で改修を重ね、現在の皇居の中核となった。

このように、江戸から東京への移行は1日で完結したのではなく、数か月にわたる詔書・布告・行幸を積み重ねて段階的に進められた。地名・政治制度・天皇の所在地という3つの要素が、同時並行的に再構成されていったのが、近代国家としての日本のスタートラインだったのである。

もう一歩先

東京の歴史は、江戸からの連続性と、明治以降の変化の両面で読み解かれる。江戸時代の上下水道・治水・町割り・商業ネットワークは、明治の東京府が引き継ぎ、その上に近代的な行政・産業の制度が乗せられた。一方で、武家屋敷の跡地は明治政府の官庁街や軍施設、皇居外苑などに転用され、町の風景は大きく塗り替えられた。

国立公文書館は『東京150年』『変貌』など、首都の歩みを一次史料からたどる展示を公開してきた。これらをひもとくと、東京の地名・行政区分は、市制町村制の施行、関東大震災、戦時下の都制移行、戦後の23区再編、高度成長期の都市再開発を経て、現代に至るまで何度も再編されてきたことが分かる。

江戸からの名前の変化はそのスタートに位置づけられる一筋の出来事だが、その背景には、京都・大坂・江戸という3都市の重みづけを変えた政治史と、近代日本のかたちを定めるという大きな構想があった。今日の東京の都市像を理解するうえでも、江戸との連続性と変化を意識して見ることが手がかりになる。

🌱 ためしてみよう!3択クイズ

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Q1. 江戸が東京という名前になったのは、いつごろのことでしょう?
こたえ:明治時代のはじめ(約160年前)
1868年(明治元年)7月17日に、明治天皇が「江戸ヲ称シテ東京ト為ス」という命令(詔書)を出しました。これが「江戸」から「東京」への改名の瞬間です。明治時代のはじまりとほぼ同じタイミングで、日本が大きく変わったことを表しています。
Q2. 「東京」という名前には、どんな意味がかくされているでしょう?
こたえ:東の大きな都(みやこ)
「東京」は「東の京(みやこ)」という意味です。当時の首都だった「京都」が「西の京」とも呼ばれていたのに対し、東の方にある新しい都として「東京」と名づけられました。京(みやこ)は天皇が住む大切な場所を指す言葉です。
Q3. 明治の新政府がわざわざ江戸を新しい都にえらんだのは、おもにどんな理由からでしょう?
こたえ:江戸が日本の東のほうにあり、人口も多く政治の中心として便利だったから
江戸はすでに徳川幕府の政治の中心地として約260年間栄えており、人口も100万人を超える世界最大級の都市でした。新政府は日本全体をまとめるために、すでに人や物が集まっていた江戸を新しい都の拠点に選んだのです。

👤 大人のちょっとした雑学

「遷都」ではなく「奠都」だった理由

明治政府は正式に「遷都」(首都を移す)の宣言をしていない。京都の公家や市民の反発を避けるため、「東幸」(天皇が東へお出かけ)という形をとり続けた。そのため法的には「奠都」(都を定めた)とされ、今日まで「東京が正式に首都」と定めた法律や勅令は存在しない。

改名の詔書が出た日は「海の日」の前身

東京改称の詔書が発せられた1868年7月17日(旧暦)は、明治改元と同日であった。新暦に換算すると9月3日にあたる。一方、翌1869年に明治天皇が東京へ再度「東幸」した旧暦3月28日(新暦5月9日)が実質的な奠都の日とも言われ、研究者によって解釈が分かれている。

江戸城は「皇居」になる前に競売にかけられかけた

明治政府が江戸城を皇居(当初は「東京城」と呼ばれた)として接収したのは1869年。しかし当初は城内の広大な土地の使い道が決まらず、一部を払い下げる案も浮上した。最終的に天皇の居所として整備され、現在の皇居の形が固まるのは明治末期から大正期にかけてのことである。

🔬 とことん深掘り:読書ガイド

読み順ガイド(やさしい→専門)

  1. 江戸東京の明治維新(横山百合子、岩波新書)
    遊女・被差別民・貧民など「名もなき人々」の視点から奠都の激動を描く。通史の補足として社会史的視座を最初に得るのに最適。
  2. 都市空間の明治維新(松山恵、ちくま新書)
    皇居整備・煉瓦街計画・武家地転用など都市空間の物理的変容を追う。改称という「名」の変化から「実」の変容へ理解を深める第二段階として位置づけられる。
  3. 東京史――七つのテーマで巨大都市を読み解く(源川真希、ちくま新書)
    奠都から現代まで「首都・東京」の構造変容を七テーマで通観する。江戸→東京の変容を長期的文脈に置く俯瞰視点を与えてくれる。
  4. 明治維新(遠山茂樹、岩波文庫)
    戦後歴史学の到達点として長く読まれてきた古典。幕府・朝廷・諸藩・民衆の力学を体系的に把握したい段階で読む。奠都を「政治変革の帰結」として位置づけ直せる。
  5. 江戸・東京の都市史(松山恵、明治大学人文科学研究所叢書、東京大学出版会)
    都市史・建築史・社会史を横断する研究論文集。政策立案から下層社会まで多角的に扱い、奠都研究の1次資料・先行研究の地図を得たい院生・研究者レベル向け。

さらに進む方向

  • 都市史・建築史に進むなら:藤森照信『明治の東京計画』(岩波現代文庫)や石田頼房『日本近代都市計画の百年』へ
  • 天皇制・国家形成論に進むなら:原武史『可視化された帝国』や安丸良夫『神々の明治維新』へ
  • 比較都市史・東アジア文脈に進むなら:羽田正編『グローバル・ヒストリーと東アジア』や水島司編『アジア近現代史』へ
  • 幕末外交・開国史と接続するなら:加藤祐三『幕末外交と開国』(講談社学術文庫)や石井孝『明治維新の国際的環境』へ
  • 歴史地理・地名学に進むなら:足立区立郷土博物館編『江戸・東京の地名由来』や竹内誠監修『江戸東京地名辞典』へ

もっと詳しく:歴史と時系列

  1. 1590年
    徳川家康が江戸に入る
  2. 1603年
    江戸幕府が開かれる
  3. 18世紀
    江戸の人口が100万人を超える
  4. 1868年7月17日
    詔書『江戸を東京と称す』・東京府設置
  5. 1868年9月8日
    明治改元・一世一元の制が定まる
  6. 1868年10月13日
    江戸城が皇居・東京城に改称
  7. 現代
    東京都・23区を中心とする首都圏へ

ことばのメモ

詔書
天皇さまが出される公式の文書
慶応4年
西暦1868年・江戸時代の最後の年
明治改元
元号が慶応から明治に変わったこと
東京府
江戸府にかわって作られた行政区
一世一元
天皇一代に元号一つの制度

よくある質問

東京は『東の京(みやこ)』という意味ですか?
はい。東京都公文書館によれば『東京』はもともと『東の方にある都』を意味し、中国では西京長安に対する呼称として使われた語で、これを江戸に当てたものです。
江戸時代の江戸の人口はどれくらいでしたか?
18世紀には100万人を超え、当時の世界でも有数の大都市だったとされます。武家屋敷・町人地・寺社地が同心円状に広がっていました。
東京改称と明治改元は同じ日ですか?
違います。『江戸を東京と称す』との詔書は1868年7月17日、明治改元の詔は同年9月8日と、それぞれ別の日に出されたと記録されています。
江戸城は今どうなっていますか?
明治元年10月に皇居・東京城と改称され、宮内省の管轄で改修されました。現在の皇居の中核として残り、東御苑などが一般公開されています。

学びのタネ

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家でできること

  • 国立公文書館のデジタル展示『変貌』『東京150年』を見て、江戸から東京への流れをたどってみよう。
  • 古い東京の地図(明治初期)と今の地図を見比べて、武家屋敷だった場所が今どうなっているか調べてみよう。
  • 自分が住む町や市の名前にどんな由来があるか、市区町村の歴史ページで調べてみよう。

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出典・参考文献

  1. 国立公文書館変貌 - 3.江戸を東京と定める 参照 2026-06-19
  2. 国立公文書館変貌 - 4.東京府を設置 参照 2026-06-19
  3. 国立公文書館変貌 - 5.江戸城を皇居と定め東京城と改称 参照 2026-06-19
  4. 東京都公文書館明治東京異聞 -トウケイかトウキョウか- 東京の読み方 参照 2026-08-05

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