花火大会はどうして夏に多いの?

公開:2026-08-04 更新:2026-08-04 読了 約7分

図解

1 寛文元年(1661年) 両国橋が架けられる 2 享保2年(1717年) 水神祭りの夜に花火を上げたとする説がある 3 享保17年(1732年) 大飢饉となり疫病が流行し多くの死者が出る 4 享保18年(1733年)5月28日 最初の両国川開き 5 納涼期間 旧暦5月28日から8月28日までの夕涼み 6 明治時代 さまざまな化学薬品が輸入される

図解:問いを6ステップで読みとく流れ(自動生成)

江戸の川開きという夏の納涼行事と結びついて広まったから。

夏になると、あちこちで花火はなび大会がひらかれます。どうして花火は、夏の行事になったのでしょう。

手がかりは、江戸えど時代の東京にあります。墨田区すみだく資料しりょうによると、享保きょうほう十八年、西れき一七三三年の五月二十八日に、「両国りょうごく川開かわびらき」という行事が行われました。八代将軍しょうぐん徳川吉宗とくがわよしむねの時代のことです。

川開きとは、納涼のうりょう、つまりすずむための期間きかんの、いちばん最初の日のことです。国立国会図書館こくりつこっかいとしょかん資料しりょうによると、その日から八月二十八日までが、川ですずむ期間とされていました。

つまり「今日から川であそんでいいですよ」という合図の日だったのです。

その合図の日に花火が上げられ、夏のはじまりを知らせる行事になりました。

花火が上げられた理由りゆうには、いくつかのせつがあります。東京消防庁とうきょうしょうぼうちょう資料しりょうによると、前の年におきたきんや流行りゅうこうした病気びょうきで、多くの人が亡くなったことが背景はいけいにあったとつたえられています。

花火大会は、いったんとぎれた時期もありましたが、昭和しょうわ五十三年に「隅田川花火大会」として復活ふっかつしました。

花火が夏の空に上がるのは、川ですずむ季節きせつの、始まりの合図だったからなのですね。

花火が夏の風物詩になったのは、火薬の都合ではなく暦の都合である。国立国会図書館のレファレンス協同データベースが説くところでは、川開きとは水辺を使ってよい季節の初日を指した。魚とりも水泳も涼み舟も、一定の期日までは禁じられ、その日を境に解禁される。両国では旧暦五月二十八日から八月二十八日までが夕涼みの時期とされ、初日の夜空に花火が上がった。花火は祝祭の飾りである前に、季節の解禁を告げる合図だったのだ。起源には諸説ある。東京消防庁の資料は、前年の飢饉と流行病で多くの死者が出たことを背景に挙げる一方、それより十六年早い享保二年、水神祭りの夜の余興として花火が上がったという伝えも併記する。どちらかに断定できる状況ではない。行事そのものも一度は途絶えている。墨田区の資料によれば昭和三十六年でいったん幕を閉じ、昭和五十三年に隅田川花火大会として戻ってきた。

仕組みの科学

花火大会が夏に集中する理由を、火薬の性質から説明することはできない。鍵は江戸の水辺を律していた季節の制度にある。国立国会図書館のレファレンス協同データベースによれば、川開きというのは納涼期間の最初の日という意味であり、さらに、ある一定の月日まで河川の魚とり・納涼・水泳などを禁止していたものを公開利用させるはじめての日と定義されている。つまり川は、いつでも自由に使える場所ではなかった。利用が許される期間が区切られており、その開始日が川開きだったのである。両国では、旧暦五月二十八日より八月二十八日までが両国夕涼みの期間とされていた。三か月ほどのこの窓が、江戸の人々にとっての夏そのものだったと考えてよい。営業時間の拡大も同じ期間に合わせて認められていたと記録されている。ここで花火の位置づけが見えてくる。花火は単独で夏に打ち上がるようになったのではなく、解禁日を告げる合図として期間の入口に置かれた。祝祭の演出であると同時に、季節の切り替えを人々に知らせる社会的な装置だったわけである。だからこそ日付は動かない。旧暦五月二十八日という特定の日に固定されていたことが、花火と夏を強く結びつけた。制度が先にあり、花火はその節目に呼び込まれた。この順序を押さえると、なぜ秋や冬ではなかったのかという問いにも答えが出る。

歴史と発見

両国の川開きがいつ始まったかについては記録が残っている。国立国会図書館のレファレンス協同データベースは享保十八年、西暦一七三三年からとする。墨田区の資料も、八代将軍・徳川吉宗の時代、享保十八年五月二十八日を最初の両国川開きと位置づけている。舞台となった両国橋は、国立国会図書館の資料によれば寛文元年、西暦一六六一年に架けられたものである。橋と水辺の賑わいが先にあり、そこへ行事が重なった。花火が打ち上げられた理由については、二つの説が併記されている点が重要である。東京消防庁の資料は、享保十七年、西暦一七三二年が大飢饉となり、加えてコレラがはやって多くの死者が出たと記す。墨田区の資料も、大飢饉や江戸に流行した疫病に触れ、死者供養と災厄除去という目的を挙げている。一方で東京消防庁は、享保二年、西暦一七一七年五月二十八日の水神祭りの夜に余興として花火を打ち上げたという説も紹介している。国立国会図書館の資料も一七三二年から一七三三年にかけての水神の祭りに言及しており、どちらか一方が正しいと断じられる状況ではない。確かなのは、飢饉と疫病という苦境と、水辺の年中行事という二つの文脈が、花火の起源をめぐって重なっていることである。その後この行事は長く続き、墨田区の資料によれば昭和三十六年、西暦一九六一年まで行われた。

もう一歩先

夏の花火という結びつきが江戸に始まったとして、今日まで同じ形で続いてきたわけではない。墨田区の資料によれば、両国の川開きと花火は若干の断絶期を挟みながら昭和三十六年まで続き、昭和五十三年、西暦一九七八年に隅田川花火大会と名前を変えて復活した。十七年の空白を経て名を改めて戻ってきたという経緯は、伝統が自動的に継承されるものではないことを示している。花火そのものも変化した。墨田区の資料は、江戸の花火が黒色火薬を使う和火であったこと、明治時代に入るとさまざまな化学薬品が輸入されたことを伝えている。今日の色鮮やかな花火は、江戸の人々が見上げたものとは光の質が違う。同じ夜空の同じ場所でも、見えていたものは時代ごとに別物だったことになる。暦の問題も残る。川開きの日付である五月二十八日は旧暦であり、現在の暦に直せば夏の盛りにあたる。明治の改暦以降、行事は新暦の日付へ移されていったが、季節感のほうは旧暦の体感に沿って残った。日本各地の花火大会が七月から八月に集中しているのは、この季節感が引き継がれた結果と見ることができる。制度としての解禁日は失われても、夏に水辺へ集まり、夜空を見上げるという行為の型だけが残った。花火大会の日程表は、江戸の川がいつ開かれたかという記憶の、かたちを変えた続きなのである。

🌱 ためしてみよう!3択クイズ

本文をよんでこたえてみよう。タップでせいかいがでるよ。

Q1. 「川開き」とはどんな日のこと?
こたえ:川ですずむ期間の最初の日
国立国会図書館の資料によると、川開きは納涼、つまり川ですずむ期間のいちばん最初の日という意味です。その日から川であそんでよい、という合図の日でした。
Q2. 最初の両国川開きが行われたのはいつ?
こたえ:享保十八年(一七三三年)
墨田区の資料によると、八代将軍・徳川吉宗の時代である享保十八年、西れき一七三三年の五月二十八日に、最初の両国川開きが行われたとされています。
Q3. 江戸の花火はどんな花火だった?
こたえ:黒色火薬を使った和火
墨田区の資料によると、江戸の花火は黒色火薬を使う和火でした。いろいろな色が使えるようになったのは、明治時代にさまざまな化学薬品が輸入されてからのことです。

👤 大人のちょっとした雑学

花火は「解禁日」の合図だった

江戸の川は年じゅう自由に使える場所ではなかった。漁も水浴びも涼み舟も期日まで止められ、その封が解ける初日が川開き。花火はその号砲として呼ばれた側である。

起源をめぐる説は割れている

凶作と流行病の犠牲者を背景に置く語りと、それより十六年さかのぼる水神の祭礼で余興として上げられたとする語り。二系統が並存し、決着はついていない。

十七年の空白を経て復活した

この年中行事は一九六一年でいったん終わっている。名を隅田川花火大会と改めて再開したのは一九七八年。伝統は放っておいても続くものではない。

🔬 とことん深掘り:読書ガイド

読み順ガイド(やさしい→専門)

  1. 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「隅田川の川開きについて」(ウェブ資料)
    川開きの定義と納涼期間の日付が典拠つきで示される。用語の意味を先に固めると、後の史料が読みやすい。
  2. 『花火/下町/隅田川 両国の花火250周年記念誌』
    同データベースが挙げる典拠のひとつ。行事の連続性と断絶を、記念誌という当事者側の記録から追える。
  3. 『江戸隅田川界隈』
    水辺の空間そのものを扱う一冊。橋・船宿・水茶屋という舞台装置を知ると、行事の成り立ちが立体的になる。
  4. 『国史大辞典 3』(川開きの項)
    全国の川開き習俗のなかに両国を位置づけ直す段階。江戸固有の話なのか一般的な習俗なのかを判定できる。

さらに進む方向

  • 全国の河川で行われた川開き習俗を集め、両国の日付固定がどこまで一般的だったかを比較する
  • 享保二年説と享保十八年説の典拠系統をたどり、どの時点の記録で分岐したかを特定する
  • 改暦後の花火大会の日程変更を新聞資料で追い、季節感がどう再配置されたかを検証する

もっと詳しく:歴史と時系列

  1. 寛文元年(1661年)
    両国橋が架けられる
  2. 享保2年(1717年)
    水神祭りの夜に花火を上げたとする説がある
  3. 享保17年(1732年)
    大飢饉となり疫病が流行し多くの死者が出る
  4. 享保18年(1733年)5月28日
    最初の両国川開き
  5. 納涼期間
    旧暦5月28日から8月28日までの夕涼み
  6. 明治時代
    さまざまな化学薬品が輸入される
  7. 昭和36年(1961年)
    両国の川開きと花火がいったん途切れる
  8. 昭和53年(1978年)
    隅田川花火大会として復活

ことばのメモ

川開き
川ですずむ期間の最初の日
納涼
涼しさを求めてすずむこと
享保
江戸時代の年号のひとつ
和火
黒色火薬を使った昔の花火
旧暦
明治より前に使われていた暦

よくある質問

両国の川開きはいつ始まったの?
国立国会図書館のレファレンス協同データベースによれば享保十八年、西暦一七三三年からとされます。墨田区の資料も同年五月二十八日を最初の川開きとしています。
川開きにはどんな意味があるの?
納涼期間の最初の日という意味です。一定の月日まで河川の魚とり・納涼・水泳などを禁止していたものを、公開利用させるはじめての日とも説明されています。
花火が上げられた理由は一つなの?
諸説あります。東京消防庁は享保十七年の大飢饉と疫病による死者に触れる説と、享保二年の水神祭りの余興という説の両方を紹介しています。
納涼の期間はどのくらいだったの?
両国では旧暦五月二十八日より八月二十八日までが夕涼みの期間とされていました。およそ三か月にわたる区切られた期間だったことになります。
江戸の花火は今と同じ色だったの?
違います。墨田区の資料によれば江戸の花火は黒色火薬を使う和火で、明治時代に入ってさまざまな化学薬品が輸入されたと伝えられています。

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出典・参考文献

  1. 国立国会図書館 レファレンス協同データベース隅田川の川開きについて 参照 2026-08-04
  2. 墨田区隅田川と花火 参照 2026-08-04
  3. 国立国会図書館(NDLイメージバンク)花火と隅田川の川開き 参照 2026-08-04
  4. 東京消防庁コレラで始まった両国花火 参照 2026-08-04

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